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八幡馬の由来・解説

八幡馬(やわたうま)は、青森県八戸市を中心とする南部地方で古くから作られている木彫り馬の郷土玩具・民芸品です。平成9年、青森県伝統工芸品に指定されています。
発祥については諸説ありますが、元々優秀馬「南部馬」の生産地であったことから、愛馬の順調な生育を願った木彫り馬が生まれたとされています。明治以降、社会・生活環境の変化に伴い木彫り馬の形状や意味も変化し、現在では子供や家族の幸せを願う愛情溢れる民芸品となり、八戸の「福馬」として記念品・贈答品・各種お祝いの品として喜ばれています。

【説1】時代不詳、天狗沢に住む一人の木工師が仕事の傍、櫛引八幡宮の馬場にて行われた古式弓馬術奉納行事「流鏑馬」の姿を模して作った木彫り馬が元祖説。
【説2】明治の初期、笹子に住む一人の農民が、泥の中から偶然見つけた木彫りの馬を真似て作ったものが元祖説。
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八幡馬の歴史

参詣者のおみやげとして「馬の玩具」

南部一の宮「櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)」の例祭の社前で、参詣者のおみやげとして木彫りの馬の玩具が売られるようになりました。この神社の所在地が「八幡〜やわた」と呼ばれる事から「八幡の神社で売られている馬っ子」で八幡馬と呼ばれるようになりました。

【解説】南部の居城が八戸市根城にあった頃より、近郷の三戸郡舘村八幡(やわた)の櫛引八幡宮境内の馬場 に於いて年に一度の例祭(旧八月十五日)にて武士達の弓術の奉納があり、各地の名人・名馬が馳せ参じて流鏑馬(やぶさめ)の技を競うという儀式がありました。

生活に寄り添う玩具

素朴さと親しみやすさ

後に地域農民達の農閑期の副業として作られるようになった八幡馬は、松材を鉈で荒削りした馬体に黒(鹿毛)、赤(栗毛)、白(芦毛)を基調とした色が塗られ、千代紙で飾り、あぶみ(鎧)や手綱、鈴をあらわす点星を描いた素朴なものでした。これらの模様は、昔の花嫁の輿入れにみられた盛装馬を模した模様が描かれています。

また、他にも、背中に人や猿をのせた馬、四つ車のついた台に乗った馬などが作られていました。中でも代表的なものは、台車の上に大小の親子馬が乗っていて、ひもで引いて遊ぶ男の子用のおもちゃです。この親子馬が八幡馬が「駒」ではなく「馬」と呼ばれる所以でもあります

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一鉋一鑿の木彫り馬

三春駒、木下駒と共に日本三駒と呼ぶ名玩具

大正の末期には、直線加工を得意とするナタを使いながらも、胸や腹部分の巧みな曲線加工と、華やかな装飾品を千代紙で表現している旧型の八幡馬は、三春駒(福島)、木下駒(宮城)と共に日本三駒と呼ぶ名玩具と賞賛されるようになりました。一鉋一鑿(いっぽういっさく)の木彫り馬を元祖とする「伝統型 鉈彫り八幡馬」は現在唯一の製作者・大久保直次郎氏(四代目)だけとなっています。

当社では、古くからある八幡馬を元に昭和29年(1954年)から独自の技術とデザインで新たな八幡馬を作り続けています。

【解説】一鉋一鑿(いっぽういっさく)は、昔ながらの八幡馬の作り方を一言で説明・表現するために八幡馬製造合資会社(当社の前身会社)が創った造語。

伝統とオリジナルが共存する

昔からの良さを残し、新たな魅力を生む

装飾品を千代紙で表現している旧型の八幡馬に対し、当社の八幡馬は、千代紙部分の模様を手描きで八戸に縁あるものを彩飾します。割菱(武田菱)や向い鶴(南部鶴)の家紋や安房宮(あぼうきゅう・菊)、蕪島のうみねこなどを模様化し馬体に描き、民芸品としての伝統を残しつつも郷土八戸を凝縮したオリジナリティーあふれる八幡馬となっています。結婚、新築、卒業、出産、落成などの各種お祝、記念品として広く愛され、近年では企業や団体、個人を含めオリジナルデザインのコラボ商品も多く製作しています。

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